「ファークライ4」をクリアした話

フィクションにバッドエンドは必要だろうか?

これまで自分自身、ハッピーエンドばかりでは良い作品は生まれない、むしろバッドエンド気味の方が作品として深い余韻を残す、優れた作品にはハッピーエンドは少ない、などと思ってきた。しかし、「ファークライ4」をクリアした直後の今なら胸を張って「エンターテインメントにバッドエンドなんて必要ない!!」と言える。

自分の意志と関係なく物語が展開していく映画やドラマと違って、自分が労力を費やして、何時間もかけて目的(ファークライ4の場合、ゴールデン・パスの一員となりパガン・ミンの独裁を阻止すること)を達成するためにゲームオーバーを繰り返しながら進めて、その末に裏切られるというのはダメージが大きい。

 

テレビアニメ版「海のトリトン」のエンディングも、悪に立ち向かうために自分が行ってきたことが悪そのものだった、というものだった。

ファークライ4は、そこまで後味が悪いものではないけれど、クリア後の、残ったアイテム収集や武器集めなどの要素(これらを全てコンプリートすることで、真にゲームをクリアしたと言える)は到底やれる気にはならない。なぜなら主人公の行動は正義ではないと分かってしまったから。

 

しかし、ファークライ4が他のFPSゲームと良い意味で一線を画しているのは、アジアを舞台にして内戦という現実的なテーマを描いたことにあると思う。ゲームの舞台はネパールだが、ネパール自体が2006年まで10年間にわたって内戦をしていた。この内戦を背景に、ネパールでの取材を綿密に行って完成させたそうだが、よくゲームとして山間部や農村部での内戦をリアルに表現できたと思う。

 

ひょっとしたら、このゲームをきっかけに東南・南アジアの文化やそれらの国の内戦や戦争の歴史に興味を持つ人がいるかもしれない。

私はたまたまインドネシア語を習いはじめたばかりだけれど、あまり楽しくないインドネシア語なんてやらずに、ネパール語を覚えてネパールへ行ってみたいと思った。というか、このゲームを始める前からネパールの文化に興味があった。だからファークライ4を選んだのかもしれない。

 

ちなみにゲームのエンディングでは、スタッフロールを背景にThe Crashの『Should I Stay or Should I Go』が流れる。これが映画のエンディングみたいでもあり、クラッシュってこんなに格好よかったっけ!?となるくらいめちゃくちゃ格好いい。

 

最後に、私がこのゲームをプレイするのを横で観戦しつつ、エンディングはどうなるんだろう!と張り切っていながら、いざクリアしたもののバッドエンドだとわかり呆気にとられていた友人には、このどうしようもなさを一緒に味わってくれてありがとうとお礼を言いたい。どうもありがとう。

 

youtu.be

「願ってやまない」

最近、「願ってやまない」という、よくある言い回しは、「もう諦めている」ことの裏返しなのではないかと思っている。

デジタル大辞泉には

[連語]《動詞「や(止)む」の未然形+打消しの助動詞「ない」》(「…してやまない」の形で)どこまでも…する。…しないではいられない。「御活躍を願って―◦ない」

という解説がある。「どこまでも願う」・・・「願わないではいられない」・・・

実現される願いであれば、どこまでも願い続ける必要はない。

例えば「平和を願ってやまない」のは、平和が永遠に訪れることのないからであって、実際には平和の実現を諦めていないにせよ、非現実的な願いであることは誰だってわかっていることだ。

 

Eーgirlsの『Smile For Me』という曲にこんな歌詞がある。

 ずっと 続けば良いのにねって

願ってやまない 時間(とき)を

一緒に過ごした日々 I`ll be there when you need me

 この曲は、このブログを書くにあたって偶然に見つけたものだが、まさに今回言わんとしていることを表している。

いつか訪れる別れを確かに認識しつつ、この楽しい、何もかもが最高な時間がいつまでも続いていってほしい、と願っている(それが不可能であると理解しながら)。

 

しかし、なぜこんな内容のブログを書こうと思ったのか、一つ理由がある。それは、何年も昔に読んだ小説にあったフレーズを思い出したからである。

米澤穂信の青春ミステリシリーズ『氷菓』の第3弾『クドリャフカの順番』。

学園祭で連続盗難事件が発生し、その犯人を追っていた福部聡志はなかなか犯人を捜し出すことができず、共に捜索していた知り合いから「期待していたんだがなあ」と落胆した声をかけられる。

その直後、側でそのやり取りを見ていた友人の伊原に、福部はこう話す。

「自分に自信があるときは、期待なんて言葉を出しちゃあいけない」

「期待っていうのは、諦めから出る言葉なんだよ」

「期待ってのは、そうせざるを得ないどうしようもなさを含んでいなきゃどうにも空々しいよ」

期待というのは、自分ではどうしようもなくなったときに、目標を達成しうる力を持った誰かに対してするものである、と・・・。

セルゲイ・パラジャーノフ『ざくろの色』

大学の図書館というのは暇人にとっての聖地みたいなもので、中でも、自由に映画や記録映像を観られる視聴覚コーナーには驚くべきほどの量の洋画が揃っている。

このセルゲイ・パラジャーノフざくろの色』も、もちろんその蔵書(というか、蔵DVD)である。

 『マッド・マックス 怒りのデスロード』のような手に汗握る映画も好きだけれど、同じグルジア出身、

テンギス・アブラゼ監督の「祈り 三部作」がもうすぐ公開される

 と聞いて、じゃあグルジアアルメニア映画を観てみようと思い、パラジャーノフ作品に手を出した。

 

セルゲイ・パラジャーノフ自身はグルジア出身のアルメニア人であり、本編は全編にわたってアルメニア語である。

何より、このアルメニア語の響きがいい。

wikipediaによれば、インド・ヨーロッパ語族にありながらゲルマン語派にもスラヴ語派にも属さず「インド・ヨーロッパ語族アルメニア語(派)」と分類されているらしい。

アルメニアという国自体が、西アジアに位置し、東のアゼルバイジャン、西のトルコというイスラーム教の信仰が盛んな地域に挟まれながらキリスト教を国教としているという点で興味深い。興味深くありませんかね...?

劇中の美術だって、ペルシャ絨毯や装飾品など、どこか中東・イスラームっぽい雰囲気がある。しかし、主人公サヤト・ノヴァは修道院へ入るし、イコンも登場するので、ああやはり、キリスト教の世界なのだなあと実感する。けれども、アルメニア語の響きは個人的にキリスト教と結びつかないこともあって、アラブ世界とキリスト教がマーブル模様を形成しているような、不思議な気持ちになった。そういう点で、アルメニア語はよかった。

 

パラジャーノフと言えば映像の色彩や詩的な世界が言及されることが多いけど、音楽もまたよかった。

 賛美歌のような美しいコラール(恐らくアルメニア語だろうから歌の内容はわからない)が流れたかと思えば、サズやウード(こういうやつこういうやつ)の音色が流れたりするので、舞台はアラブではないのにアラブの風景が思い起こされるのが面白い。

この映画のサウンドトラックとか出たら民族音楽のアルバムとして純粋に聴けると思う。

 

なお、この『ざくろの色』はもともと『サヤト・ノヴァ』というタイトルでパラジャーノフが完成させたものを、ソ連の映画監督セルゼイ・ユトケーヴィッチが再編集したものである。一部シーンは検閲により削除されたのだが、いつか完全版が発見されることはあるのだろうか・・・ 

ブログなんて始めるつもりじゃなかった

大学生はブログなんてやらないほうがいい、そう思いながらブログを始めることにした。

あまりにも暇すぎると、人はブログを始めるのだと気付いて、もしかしたら大学の食堂で一人カレーを食べているあいつもブログをやっているのかもなあ、と思った。

基本的には小説や人文系、詩歌、映画や音楽について適当に書いていきたいけれど、ある程度の長さの文章をコンスタントに書いていくことに慣れたい、というのが目標なので、とりあえず何か書ければいい。

 

 

しかし、大学生はブログなんてやってる場合じゃない。