映画『勝手にふるえてろ』(ネタバレ)
『勝手にふるえてろ』を観ずに映画好きを名乗るなって きのうのわたしにいうてやりたい(今橋愛っぽく)
「優れた」映画と「好き」な映画って実は違うというか、その二つを満たしているものはもちろん存在するんだけれども、観た後に自分が何を考えるか、自分に何を感じさせるか・・・という点でこの二つは全く違う。
で、この『勝手にふるえてろ』は「好き」だし「優れた」映画 だったというわけで。
まず凄かったのはヨシカこと松岡茉優の演技をしているんだけれども素でにじみ出ている「ヤバい女感」で、あっ、こういうエキセントリックな女性っているよね・・・とちょっと恐怖を感じながら観ていた。
実は前半、すなわち「イチ」が自分の名前を覚えていない!と知る場面までは、何だよ、こじらせ系女子って言ったって普通に可愛いし服装にも気をつかっているし何より松岡茉優は美しいなあ!と思いながら観ていたんだけど、後半になってからはそんな思いは無くなっていた。
あの、自分の喜怒哀楽をコントロールできない感じを観させられるにつれ、ああ、確かに、そりゃアンモナイト撫でてるのが幸せだよな、誰にも怒られないしな、とヨシカを慰める気持ちになっていた。
「恐怖を感じながら観ていた」とか「慰める気持ちになっていた」というのも、実はヨシカを自分自身に重ね合わせているからであって、ヨシカの喜怒哀楽はそのまま自分に伝染しているのではないかという感じがした。
この、ヨシカの行動を観ていることはすなわち、映画を観ている自分自身の痛い部分を見せつけられている・・・という状況が続くのだけど、中でも「イチ」に「ごめん、名前なに?笑」と言われてしまうシーン、そしてその後の漏れ出る「ああぁぁ・・・」という悲痛な声、死んだ目!こんなの観てられないよ!!
そして、それに続く、いままで街の人と仲良く話していたのがヨシカの妄想だとわかるシーンはホラー映画なみにヒェッッ!!となった。というのも、ウェス・アンダーソン『天才マックスの世界』では主人公マックスが散々酷い目に遭った末、自分が書いた脚本で舞台をやり大成功を収めるんだけれど、この舞台で大成功というシーンに現実味がなくて、これもしかしてマックスの妄想なんじゃないか、・・・と思ったことがあって、それ以来、満たされない主人公、急にハッピーになるシーン全部妄想説を提唱していて。まあ、ヨシカと街の人たちとのやりとりは少々大げさではあるけど、エンターテインメント作品ならこういう描写もなくはないか、と。まさか全部妄想なわけないよなあ~、今まで一回もこの説が適用されたことはないからなあ~と思っていたら全部妄想だった。おいおいマジかよ・・・
このシーン、ヨシカはミュージカル調にいままで話していたのは全部妄想ですということを歌に乗せて説明するのだけど、ここはこの映画で2番目に素晴らしいシーンだと思った。加えて、家に着いた途端に涙がこみ上げてくるところ、こんな泣き方してる人、深夜の駅前で見たことあるかも!というくらいに「追い込まれた人の泣き方」をしていて素晴らしかった。
宇多丸さんも言っていたように「今日は人生の最良の1日になるぞ!」って出かけた日に、ドヨ~ンとして帰ってくる」感じ。
ヨシカはここで一旦どん底に落ちてから、吹っ切れた感じで、誰とも話してこなかった自分を何とかしよう!と掃除のおばちゃんに話しかけたり、現実の彼氏「二」とデートに行って普通に楽しんだりして、このまま終わってもいいじゃない?と思っていたんだけど、むしろ本編はここから急展開するという感じで。同僚のクルミが、二人の関係が上手くいくようにという気持ちで「二」に「ヨシカは男性経験がない」ということを伝えていた、というのを知ってしまったヨシカはとにかくキレてF○CKF○CK言いまくるんだけど、キレてたと思ったら急に号泣するし、妊娠してないのに産休届出して会社を休もうとするし、もう喜怒哀楽をコントロールできないという状況になってしまって。
特に、会社のデスクでキレるシーンは心臓に悪かった。次に会社に行くときはとにかく謝りまくれよ!!と心の中でヨシカを応援してしまった。クルミは老婆心であのアドバイスを言ったとは思うんだけど、無意識にヨシカを見下している部分はあるよね・・・?無かったとしても、猜疑心がマックスになってしまったヨシカはそう理解してしまった。人の言動の裏を過剰に読み取ってしまうような感じ、とても分かるんだなあこれが。
それ以来、クルミの電話は無視して「二」とは顔を合わさなくなって、しばらく孤独な生活を送るんだけど、クルミからの「大人な対応の留守電」を聞いたヨシカは何となく気持ちが晴れやかになって、「二」に電話をかけるも着信拒否、この一連のシーンもすごくよかった。人って「誰とも顔を合わせたくない」→「誰かと話したい」→「誰とも顔を合わせたくない」という感じで感情が巡っていくと思うんだけど、「誰とも顔を合わせたくない」→「誰かと話したい」ってなったときに誰かの声を聞く機会があるかどうか、というのはすごく大事なことで、いざ「誰かと話したい」となったときに誰とも話す機会がないと人って生きる力を失って家から出なくなっちゃう。僕は三日に一回、人と話す機会があれば良い方だから、もうそれに慣れてしまって家から出られない時期を経て逆に今は一人で何でもできてしまうようになったのでとてもたのしい。
逆にイチカは、誰かと関わってると嫌なことばかりなら一人で生きてやる!案外死なないぞ!と強がったものの、やっぱり人の声が聞きたいな、ということでラストシーンに繋がるわけですが。
そして、このラストシーンがこの映画の中の一番好きなシーン。それどころか「桐島、部活やめるってよ」の屋上ゾンビシーンに並ぶ最近の邦画における名シーンの一つだと思った。
「二」との関係が一歩進む=ヨシカへの救い=我々映画を観ている者への救いであって、あの最後で一種のカタルシスを得ると同時に、自分の中にまだこんな幸せな気持ちがあったのね・・・というくらい晴れやかな気分になった。普段エンターテインメント作品をたくさん観ているのなら、大団円もしくはハッピーエンドに慣れているぶん、幾分か感動は薄れてしまうかもしれないけど、こんな幸せな結末の映画、久しぶりに観たよ!と自分は感動してしまった。カウリスマキもいいけど(ちょうど『勝手にふるえてろ』を観る前、カウリスマキの『真夜中の虹』を観ていた。これもいつか書こう。)、人が幸せになるのってなんて幸せなんだろう、と涙が出そうだった。
ヨシカの現実の彼氏「二」もけっこう痛いキャラクターで、女性へのアプローチの仕方とか赤い付箋を「思い出の品」とか言っちゃうあたりとかマンションのエレベーターまでついてきちゃうところとか、行動が突飛すぎてこいつもしかして童貞なんじゃないかとすら思った。(でも、ちゃんと思い出の品になってたよね。)
しかし、何度、情緒不安定なヨシカに冷たい態度をとられようともラストシーンまでめげなかった「二」にヨシカも心を開くんだけど、不思議と観ている自分も「二」を受け入れるようになってて、恋する女性ってこういう気持ちなのか・・・と神妙な面持ちになった(なってない)。
あと、「皿洗いとかめんどくさいことは音楽聴きながらやるのはよくわかるなあ」とか「あんな冷たいこと言っておきながらちゃっかり反復横跳びやってる・・・切ない・・・」とか「学生時代のヨシカ、確かにこんな髪型の女子いたなあ」とか「テクノ聴いてる女の子いいよなあ」とか「ヘッドホンで音楽聴く女の子いいよなあ」とか「ましてやヘッドホンでテクノ聴く女の子なんて・・・」と思ったりしたけど、とにかく好きな映画だった。
この映画、女性が観たらもっと共感できる部分があると思うぜ・・・。
最後に主題歌をどうぞ。この主題歌も、黒猫チェルシーだからもちろん、「二」を演じた渡辺大知がボーカルで歌っているんだけど、「二」側の心情を歌っているような歌詞で、グッとこの映画の世界が広がる感じがしていいな。
「ファークライ4」をクリアした話
フィクションにバッドエンドは必要だろうか?
これまで自分自身、ハッピーエンドばかりでは良い作品は生まれない、むしろバッドエンド気味の方が作品として深い余韻を残す、優れた作品にはハッピーエンドは少ない、などと思ってきた。しかし、「ファークライ4」をクリアした直後の今なら胸を張って「エンターテインメントにバッドエンドなんて必要ない!!」と言える。
自分の意志と関係なく物語が展開していく映画やドラマと違って、自分が労力を費やして、何時間もかけて目的(ファークライ4の場合、ゴールデン・パスの一員となりパガン・ミンの独裁を阻止すること)を達成するためにゲームオーバーを繰り返しながら進めて、その末に裏切られるというのはダメージが大きい。
テレビアニメ版「海のトリトン」のエンディングも、悪に立ち向かうために自分が行ってきたことが悪そのものだった、というものだった。
ファークライ4は、そこまで後味が悪いものではないけれど、クリア後の、残ったアイテム収集や武器集めなどの要素(これらを全てコンプリートすることで、真にゲームをクリアしたと言える)は到底やれる気にはならない。なぜなら主人公の行動は正義ではないと分かってしまったから。
しかし、ファークライ4が他のFPSゲームと良い意味で一線を画しているのは、アジアを舞台にして内戦という現実的なテーマを描いたことにあると思う。ゲームの舞台はネパールだが、ネパール自体が2006年まで10年間にわたって内戦をしていた。この内戦を背景に、ネパールでの取材を綿密に行って完成させたそうだが、よくゲームとして山間部や農村部での内戦をリアルに表現できたと思う。
ひょっとしたら、このゲームをきっかけに東南・南アジアの文化やそれらの国の内戦や戦争の歴史に興味を持つ人がいるかもしれない。
私はたまたまインドネシア語を習いはじめたばかりだけれど、あまり楽しくないインドネシア語なんてやらずに、ネパール語を覚えてネパールへ行ってみたいと思った。というか、このゲームを始める前からネパールの文化に興味があった。だからファークライ4を選んだのかもしれない。
ちなみにゲームのエンディングでは、スタッフロールを背景にThe Crashの『Should I Stay or Should I Go』が流れる。これが映画のエンディングみたいでもあり、クラッシュってこんなに格好よかったっけ!?となるくらいめちゃくちゃ格好いい。
最後に、私がこのゲームをプレイするのを横で観戦しつつ、エンディングはどうなるんだろう!と張り切っていながら、いざクリアしたもののバッドエンドだとわかり呆気にとられていた友人には、このどうしようもなさを一緒に味わってくれてありがとうとお礼を言いたい。どうもありがとう。
「願ってやまない」
最近、「願ってやまない」という、よくある言い回しは、「もう諦めている」ことの裏返しなのではないかと思っている。
デジタル大辞泉には
[連語]《動詞「や(止)む」の未然形+打消しの助動詞「ない」》(「…してやまない」の形で)どこまでも…する。…しないではいられない。「御活躍を願って―◦ない」
という解説がある。「どこまでも願う」・・・「願わないではいられない」・・・
実現される願いであれば、どこまでも願い続ける必要はない。
例えば「平和を願ってやまない」のは、平和が永遠に訪れることのないからであって、実際には平和の実現を諦めていないにせよ、非現実的な願いであることは誰だってわかっていることだ。
Eーgirlsの『Smile For Me』という曲にこんな歌詞がある。
ずっと 続けば良いのにねって
願ってやまない 時間(とき)を
一緒に過ごした日々 I`ll be there when you need me
この曲は、このブログを書くにあたって偶然に見つけたものだが、まさに今回言わんとしていることを表している。
いつか訪れる別れを確かに認識しつつ、この楽しい、何もかもが最高な時間がいつまでも続いていってほしい、と願っている(それが不可能であると理解しながら)。
しかし、なぜこんな内容のブログを書こうと思ったのか、一つ理由がある。それは、何年も昔に読んだ小説にあったフレーズを思い出したからである。
米澤穂信の青春ミステリシリーズ『氷菓』の第3弾『クドリャフカの順番』。
学園祭で連続盗難事件が発生し、その犯人を追っていた福部聡志はなかなか犯人を捜し出すことができず、共に捜索していた知り合いから「期待していたんだがなあ」と落胆した声をかけられる。
その直後、側でそのやり取りを見ていた友人の伊原に、福部はこう話す。
「自分に自信があるときは、期待なんて言葉を出しちゃあいけない」
「期待っていうのは、諦めから出る言葉なんだよ」
「期待ってのは、そうせざるを得ないどうしようもなさを含んでいなきゃどうにも空々しいよ」
期待というのは、自分ではどうしようもなくなったときに、目標を達成しうる力を持った誰かに対してするものである、と・・・。
セルゲイ・パラジャーノフ『ざくろの色』
大学の図書館というのは暇人にとっての聖地みたいなもので、中でも、自由に映画や記録映像を観られる視聴覚コーナーには驚くべきほどの量の洋画が揃っている。
このセルゲイ・パラジャーノフ『ざくろの色』も、もちろんその蔵書(というか、蔵DVD)である。
『マッド・マックス 怒りのデスロード』のような手に汗握る映画も好きだけれど、同じグルジア出身、
テンギス・アブラゼ監督の「祈り 三部作」がもうすぐ公開される
と聞いて、じゃあグルジア・アルメニア映画を観てみようと思い、パラジャーノフ作品に手を出した。
セルゲイ・パラジャーノフ自身はグルジア出身のアルメニア人であり、本編は全編にわたってアルメニア語である。
何より、このアルメニア語の響きがいい。
wikipediaによれば、インド・ヨーロッパ語族にありながらゲルマン語派にもスラヴ語派にも属さず「インド・ヨーロッパ語族アルメニア語(派)」と分類されているらしい。
アルメニアという国自体が、西アジアに位置し、東のアゼルバイジャン、西のトルコというイスラーム教の信仰が盛んな地域に挟まれながらキリスト教を国教としているという点で興味深い。興味深くありませんかね...?
劇中の美術だって、ペルシャ絨毯や装飾品など、どこか中東・イスラームっぽい雰囲気がある。しかし、主人公サヤト・ノヴァは修道院へ入るし、イコンも登場するので、ああやはり、キリスト教の世界なのだなあと実感する。けれども、アルメニア語の響きは個人的にキリスト教と結びつかないこともあって、アラブ世界とキリスト教がマーブル模様を形成しているような、不思議な気持ちになった。そういう点で、アルメニア語はよかった。
パラジャーノフと言えば映像の色彩や詩的な世界が言及されることが多いけど、音楽もまたよかった。
賛美歌のような美しいコラール(恐らくアルメニア語だろうから歌の内容はわからない)が流れたかと思えば、サズやウード(こういうやつやこういうやつ)の音色が流れたりするので、舞台はアラブではないのにアラブの風景が思い起こされるのが面白い。
この映画のサウンドトラックとか出たら民族音楽のアルバムとして純粋に聴けると思う。
なお、この『ざくろの色』はもともと『サヤト・ノヴァ』というタイトルでパラジャーノフが完成させたものを、ソ連の映画監督セルゼイ・ユトケーヴィッチが再編集したものである。一部シーンは検閲により削除されたのだが、いつか完全版が発見されることはあるのだろうか・・・
ブログなんて始めるつもりじゃなかった
大学生はブログなんてやらないほうがいい、そう思いながらブログを始めることにした。
あまりにも暇すぎると、人はブログを始めるのだと気付いて、もしかしたら大学の食堂で一人カレーを食べているあいつもブログをやっているのかもなあ、と思った。
基本的には小説や人文系、詩歌、映画や音楽について適当に書いていきたいけれど、ある程度の長さの文章をコンスタントに書いていくことに慣れたい、というのが目標なので、とりあえず何か書ければいい。
しかし、大学生はブログなんてやってる場合じゃない。