また1年が始まる。

このブログを放置してからもう1年が経とうとしている。この1年の間、ログインすることも、何か書こうと考えたこともなかった。何か書きたいことも見つからなかった。

もともと何故ブログなんて始めたんだっけ。たしか大学1年生の秋。生活の軸となるような要素が欲しくて、文章をしたためるようになった。けれど、大学のレポートをこなすうちに、そんなことはどうでもよくなった。2年生になれば自分の研究対象を定めて、関連する文献や学術書を読まなければならない。そろそろ僕は僕の人生についてそれなりに真剣に考える必要が出てきた。こりゃ大変だ、と思った。ブログなんて書いてる場合じゃない。

でも、大学の2年生を終えようとしている今、こうして僕はまたブログの画面に向かっている。

 

この1年は、何もかもままならなかった。研究も人間関係もTOEICのスコアも何もかもが前進するどころか失速し、閉塞した。一番ショックだったのは、映画とか音楽とか文学だとか、これまで見えないところで僕を支えていたものたちにあまり感動しなくなったことだった。確かに『愛がなんだ』も『蜜蜂と遠雷』も好きな作品だったけど、観たところで実際の生活が救われるわけじゃない。むしろ「後はお前自身が何とかする番だ」と無責任にバトンを渡されるような気がして、映画館でエンドロールが終わるたびに途方もない無力感に襲われていた。(でもレンタルしてきた映画を、酒を飲みながら家で観るのはとても好きです。次の日に全然内容を覚えていなくても、どんなにクソみたいな映画でも、酒の力で昇華できた。あと、つまらない講義とかも酒で昇華できる。)

そもそも、「何かを表現している人」に対するアレルギーのようなものが出来始めていたのかもしれない。大学1年からやってきた短歌という表現の場も突然失ったし、自分の意思や想いを解放するツールを必要としていた。宮崎夏次系の漫画みたいに突拍子のないことを突然思いついたり最果タヒの詩みたいにひとつの言葉から次々と言葉が生まれて脳内がハウリングしたような感覚になることもある。そういう感覚の連続を放置していたら、その報いとして澱になって脳の血管に詰まって自分の感情すら客観的に判断できなくなるような気がしたから、ブログを書くのだろうか?そんなことは知らない。でも今日は久しぶりに現代詩を読みたくなって、『蜂飼耳詩集』を図書館で借りた。たしか蜂飼耳って東大現代文の過去問で出たっけ。でも短歌はもうしばらく読まないだろうな。