柴口勲の映画を観た

柴口勲という映画監督の名前を知ったのは2014年のPFFぴあフィルムフェスティバル)だった。

PFFの公式サイトにいくと、その年の入賞作品が、いち場面を切り取られて紹介されている。そのなかに、夏の陽光の下でセーラー服を着た女子生徒が左手を軽く上げて伸ばしている――でも、左手の先に乗せているものが何かは判らない――作品があって、いち場面だけなのにとても印象に残っていた。それが柴口勲監督の『ひこうき雲』だった。

2014年当時、岩手県の田んぼの中で中学生活を送っていた私にとっては、PFFの作品を観るために東京へ行くことはとてもできなかった。そして、結局、2023年の今まで、柴口勲監督という名前を聞くことはなく過ごしてきた。

 

そして2023年8月、新宿のK's CInemaで柴口勲監督の特集上映が行われるらしい、ということを知った。と同時に、あの『ひこうき雲』の監督であること、若手の自主映画作家だと思っていたら実はおじさんだということ、そしてもう亡くなっていることも知った。

 

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追悼上映のラインナップは、遺作となった長篇『ウソトホント』、短篇作『ひこうき雲』『夏を撮る』、その間に撮られた長篇『隣人のゆくえ』という4作品。そのなかで『隣人のゆくえ』は、唯一無二の映画だと思った。衝撃を受けた、と言ってもいいくらいだった。

 

まず、柴口監督作品のカメラは常に揺れている。微妙に動いていて、静止している場面がない。低予算自主映画ゆえの機材事情などあったのかもしれない。けれど、敢えて微妙な「揺れ」を残していたのだと思う。今回の4作品はどれも、ティーンエイジャーの心情の機微をセンチメンタルに描いている(社会問題や戦争という大きな主題はあるけれど)。そして、柴口監督は地元の下関で、プロの俳優ではなく自身の母校や地元の中高生を役者として起用し、作品を作り上げている。

だからこそ、役者として画面のなかで演技をする瞬間にも、下関に住むいち中高生という存在が滲み出してくる。その虚構と真実の微妙なあわいのようなものを、柴口監督のカメラは「揺れ」ることにより捉えている。

そして驚くべきことに、『隣人のゆくえ』では、出演、作曲、演奏、振付、撮影、録音、照明を実際の中高生が手掛けているらしい。柴口監督のカメラが捉えているというよりも、中高生自身だからこそ、その実際の感覚をもって、微妙なあわいを捉えることができたのだろう。

 

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『隣人のゆくえ』は、第二次大戦の空襲で焼け残った山口県下関市梅光学院を舞台に、ひとりの少女がミュージカル部の練習に偶然出会うところから物語が始まる。

部の練習風景や女子生徒同士の会話が繰り広げられる場面は、全体的に淡い光に包まれて『櫻の園』を思い起こさせる。一方で、かつて学校が経験した戦争と空襲の気配もかすかに漂っていて、物語は途中で大きな転換点を迎える――。

けれど、この映画はとうてい、ジャンルで分けることはできない。「戦争の悲惨さを訴える」「空襲の被害を現世に伝える」というメッセージ性を確かに持ちつつも、出演、作曲、演奏、振付、撮影、録音、照明というあらゆる面において生身の中高生自身がその感覚を発揮した記録として、生々しいドキュメントとしても観ることができる。そして、この映画を支配するのはせりふというより歌声と身体である。全編を通してミュージカルのシークエンスが挿入され、それが物語の骨格をつくっている。そのシークエンスひとつひとつにある歌声と身体の振る舞いが、せりふという言葉としての形に比べて、より説得力をもって観るものに迫ってくる。

そして、建物が持つ記憶や「場所の記憶」という意味では『わたしたちの家』を思い出す。かつてそこにいた人、あったもの、あったことはじわりといまこの空間にも広がっている、そしてわずかに触れることができる。そういう感覚を表現しようとした作品といえるかもしれない。

 

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『隣人のゆくえ』は今のところDVDなどの媒体で販売されることも、配信されることもなさそうなので、たまに映画館で上映されるチャンスを待つしかない、ということになる。これじゃあ友人におすすめしても、なかなか観てもらえる機会はなさそうだな、と考えたりする。

でも、劇中で少女たちは「永遠なんてあるのかな?」「一瞬のうちにひそんでるよ」と高らかに歌い上げている。たしかにそうかもしれない。「映画館で観る」という一瞬の体験とともにこの映画はある。そんな気がしている。

 

K's Cinemaにて 舞台挨拶があるときに行ければよかった