2024年マイ・ベスト・アルバム
2024年も終わった。今年もたくさんの新しい音楽を聴いたし、昔からずっと聴いているあの曲たちもたくさん聴いた。
2024年、学生から社会人になった。これは大きな変化だとは思うけれど、根本的な部分は変わっていない。好きな音楽を聴き、映画を観て、本を読む、その繰り返しが生活だった。とはいえ、自由に使える時間は少なくなったぶん、聴いたアルバムの数も少なくなったのだろう。国内では71のアルバム(EPを含めるともっと多い)を聴いた。むしろ学生の時より多いかもしれない......
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9. さよならポニーテール『You& I』
さよならポニーテールの楽曲は、誰が、どんな楽器で(アカペラでも、アコギでも、ピアノでも)歌ってもしっくりくる、そんな普遍性を持っている気がする。
「ふれられない奇跡」のサビでは「ひとりきりのさびしさが ぼくらの正体だ 今わかる 大人になるってこと」と歌いあげられている。でも踊るようなパーカッションとフラットな歌声で感傷的にはならない。このバランス感覚がすごいな、と聴いていていつも思う。
8. さとうもか『ERA』
一筋縄ではいかないポップセンスは健在で、そこに今までにない手作り感、ザラザラ感があるのはなぜだろう。弾き語りの「ERA」は実家で練習していたら弟に「めっちゃええ」と言われたらしい。そのエピソードを聞いたからかどうか、実家で練習をするさとうもかの姿をなんでこんなに想像できるのだろう。実家、レコーディングスタジオ、路上、ライブハウス、色々な場所の空気が楽曲からにじみ出ているような、今までにないアルバム。
4月のリキッドルームワンマンも楽しみ!
7. 折坂悠太『呪文』
折坂悠太のライブは2回観に行った。1回目は2021年、『心理』のリリースツアーで。そして2回目はこのあいだの10月に。折坂悠太のライブはほんとうにすごい、と2回とも心から感じた。アルバムももちろん良いのだけれど、ライブで披露される楽曲はさらに魔法にかかったように聴こえる。『呪文』は前作の『心理』とくらべると全体的にシンプルな音作りで穏やかな作品だった。けれど、これもライブで魔法をかけるために、あえてシンプルにしているのではないか、とすら思える。
6. ベランダ『Spirit』
2018年、「エニウェア」を聴いて衝撃を受けて、ずっと待ち望んでいた新譜がついに出た。ツインギターにベース、ドラム、シンプルな編成と実直な歌声から繰り出されるポップだけどなんか変で耳に残る楽曲たち。インタビューをみるとハヌマーンとかに特に影響を受けたらしいけど、『アンテナ』くらいまでのくるりの雰囲気とかもあって、とても良いのです。ライブでも聴いてみたいなあ。
5. 天国旅行『TOUGHNESS ROMANTIC』
1曲目の「エリーの嵐」を15秒聴いて、これは良い曲、ってすぐわかった。そういう曲をいつか書いてみたい。
調べてみたら札幌を拠点に活動しているらしい。3年前まで札幌に住んでいたのに、なんで知らなかったんだろう。身近にある優れたものはことごとく身を隠している。
4. 柴田聡子『Your Favorite Things』
これが良いアルバム、ということはみんなもう知っている。どこの2024年アルバムランキングを見てもだいたい1位か2位、低くてもトップ5には入っている。だからもう書くべきことはないのだけど、『がんばれ!メロディー』の頃のような素朴でへんてこで少し歌謡曲っぽさのあるポップ・ソングも聴きたいな、と思ったりもする。そして、『Your Favorite Things』で初めて知ったけど良いよね、って言ってる人に、 10年以上前から柴田聡子聴いてるんだぞ、知ってるんだぞ、とか、1回くらい言ってみたい。1回だけこっそり言えるくらいにはずっとずっと聴いている。
3. Official髭男dism『Rejoice』
こんなにたくさんの、それも様々な個性をもつシングル曲を収録したアルバムなのに、ちゃんとアルバムになっている。いやむしろ、アルバムを通して聴くと、もとからそこにすっぽりはまっていたかのようにシングル曲がアルバムにおさまっている。ではアルバムを貫くものは何だろう、と考えて聴いてみると、どの曲もポップだけど、音に力が入っている。楽しいけど、それだけじゃない、ポップだけど、ポップなだけじゃない、社会のなかにあるいろんな情念をいったん吸収し、そこからポップソングを生み出してきた、そんな雰囲気が漂っている。
2. tobubeats『NOBODY』(EP)
インタビューによれば「誰かがいると思って扉を開けたら、誰もいない切なさ」をパッケージングしたのだという。だとすれば、今作では、ほぼ完全に、その感情がパッケージングされているといっても、過言ではないような気がする。タイトル曲「NOBODY」では「夜中のステージで 君のことずっと待ってたよ」と繰り返し歌われていて、結局、誰も現れることはなく「わたしは 雑踏の中のひとりだと感じちゃったよ」と結ばれる。それでいて歌っているのはAI(本作では全曲をAI音声合成ソフトが歌唱している)なのだ。これでは、「待ってた」ほうのAIも、「待たせてた」ほうの何者かも、どちらも空虚なままではないか。そもそも、何も始まってはいなかったのだ。
1. Homecomings『see You, frail angel. sea adore you.』
正直、こんなにすごいアルバムになるとは思っていなかった。1曲目「angel near you」から、鳴っているすべての音が良い。3曲目「Moon Shaped」は脱退した石田成美(Dr)が最後に参加した曲だという。柔らかなボーカルエフェクトとコーラス、優しくリバーブがかかったギターが一体となって、「耳をすませば胸をたたく はなればなれのよわい予感 それも抱いて眠る部屋で 欠けたかたちは 寄り添い合ってゆく」と、誰もが迎える何らかの別れの、そのすべてに手を差し伸べている。Homecomingsの楽曲を、これからもずっと、ふとした瞬間に聴いていたい。
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2024年は蘇我のロッキン・オン、Laura day romance、折坂悠太、tofubeatsなどけっこうライブに行けた。なかでも真夏の日比谷野音で聴くカネコアヤノ最高だったな......
カルチャー 2024.11
2024年11月に観たもの、聴いたもの、読んだもの、etc......の備忘録
今年の4月に学生生活が終わって、春が過ぎ、率直に、夏が終わって寂しい、とか言っている間に、秋すらも過ぎて2024年が終わろうとしている......とてつもない恐怖。
勤労生活とは不思議なもので、観たもの、聴いたもの、読んだものがするすると身体の外に流れていってしまうように思う。このままではまずい、と思い、自分自身のために、自分自身の足跡を記録していくことにした。
自分の本当の身体は開かれた本のページや映画館の心地よい暗闇のなかにあって、決して職場のデスクのうえには無い、ということをずっと考え続けた4月からの7ヶ月でした。
◯観たもの
若き見知らぬ者たち(2024.10公開)
内山拓也監督の前作『佐々木、イン、マイマイン』は特別な朝という感じがしてとても好きだった。陽光に照らされる佐々木の横顔とか、田舎のカラオケからでてきた夜明けの空とか、画面に特別な空気が漂っていて、そういう一瞬を捉えるのがうまい監督だな、と思った記憶がある。
『若き見知らぬ者たち』はうだるように暑い夏、という空気感で、『佐々木、イン、マイマイン』が冷たい朝だとしたら、真反対の映画かもしれない。
顔を映さずに足元にクローズアップして会話が進行していくショットとか、本筋とはあまり関係ないふとした場面に意外性があって面白い。特別な一瞬を捉えたり、あるいは何ら特別でもないシーンを印象づけたりするのが映画の本分のひとつなのだとしたら、監督はそれをよく理解しているんだろうな、と思った。
ノスタルジア(1983年)
アマプラにタルコフスキーあるじゃん、むかし『アンドレイ・ルブリョフ』を観たけど、そういえばそれ以外観たことなかったな、と思い視聴。
『アンドレイ・ルブリョフ』のときはそれほど感じなかった映像や構図への狂気的な執着が感じられてとても良かった......。正直ストーリーはあまり覚えていない、というかあらすじを読んでも哲学的思索や神話的要素が多分にあって、よくわからない。こういうストーリーの難解さもあって、タルコフスキーといえば「よく眠れる」とか言われているけど、実際、寝る間際に観たらよく眠れると思う。
ただ、濱口竜介が『他なる映画と』のなかで「映画とは他性である」そして「他性こそが映画の魅力である」というようなことを言い切っていたように、映画のおもしろさはわからなさであって、そういう意味で考えると、タルコフスキーほど自分の中にある映画の地平を切り拓いてくれる作家はいないのではないかと思う。(それにしても『他なる映画と』が本当に面白くて、この本についてもいつか書きたい)
あとはアマプラで『ディア・ドクター』とか『ディパーテッド』とか、気になっていたものをちょこちょこと観ていた、んだけどやはり映画のラインナップに限界を感じつつある。U-NEXTにも入りたいなあ。
◯聴いたもの
さよならポニーテール『You & I』
11月のはじめくらいに聴いてから、12月に入ってもわりとずっと聴いている。さよならポニーテールの楽曲のなかでも2011年『魔法のメロディ』に収録されている“ナタリー”が特に好きで、今回のアルバムでは、“ナタリー”のようにセンチメンタルな要素と、ここ最近の楽曲にあるようなシティポップ的要素がちょうどよくMIXされているような感じでとても良い。
それにしても、メンバーの顔はおろか、ライブも行わないという高い匿名性をずっと保持しているのは、なんて潔いのだろう、と思う。いまから50年後にも、同じような歌声で、同じようなメロディの新曲がコンスタントに発表され続けていそうな、そんな力強さすら感じる。
↓アルバムでいちばん好きな“ふれられない奇跡“
あとはRYUTistが活動休止するときいて、『ファルセット』をあらためて聴いていた。
どの曲も素晴らしいんだけど、やっぱり“ALIVE”が本当に良い。特にサビの部分、「スワイプ」「カットアップ」「フラッシュバック」「タッチ」ということばの意味とリズムが完璧に呼応していて、蓮沼執太の作詞ってすごいんだな、とあらためて感じる。
そして「それぞれの道をすすみ バラバラのリズムで走りだす」とか、容易に口に出すとうさん臭くなってしまうようなフレーズでも、RYUTistという存在に託すことでこんなにも実直に伝わってくるのか...詩って面白いな...と感動しつつ、出勤前に聴いている。とても元気がでる。
tofubeatsのライブにも行った。
11月15日、恵比寿ガーデンホールにて「tofubeats JAPAN TOUR」の東京公演に参戦。
今年4月に出たEP『NOBODY』にめちゃくちゃハマり、初めてワンマンのツアーに申し込むことに。
恵比寿ガーデンホールはクラブとして考えるとキャパは大きめで、広い空間だし一体感とか出るんだろうか、とか考えていたけど、前半から“WHAT YOU GOT”、“PEAK TIME”、“自由”、パソコン音楽クラブとの“ゆらぎ”などアップテンポかつノレる曲が続きめちゃくちゃ楽しい。この時点でドリンクの缶ビールは飲み干していた。
それにしても“PEAK TIME”の「盛り上がる時は 一瞬で終わる」というフレーズは、ライブで聴くと箴言のような感じで身体にすごく沁みわたる。やはりこれは本当なのだ。盛り上がる時は一瞬で終わってしまうのだ。
普段はライブであまり物販など買わないけど、
『NOBODY』のジャケットがプリントされたバンダナは思わず買ってしまった。

同じ満面の笑みをうかべた警察官が「うごめいている」という感じの、なんだか気味が悪いジャケット。
これまでもtofubeatsのジャケットを手がけてきた山根慶丈さんが描いているらしい。『NOBODY』は全曲がAIの合成音声で製作されていて、tofubeatsのボーカルは入っていない。それをふまえると、実体のないAIの不気味さとクローンのような警察官の不気味さがリンクする、というと少し短絡的すぎるだろうか。
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12月はBunkamuraでキェシロフスキの『デカローグ』が一挙上映されるし、早稲田松竹では濱口竜介の『親密さ』も上映されるらしいので観に行きたいすねえ(と言いつつ時間がない)。
あとは今年聴いてないアルバムを全部聴く月間になりそう。だいたい12月下旬くらいにネットの音楽に詳しい人が「今年のベストアルバム」で自分の知らない新譜をおすすめしていて、それも全部聴くことになるんだろうな。
北野武『アウトレイジ』(をみた大学生の私は何を感じていたのか)
いまから3年半前―2020年の冬―に大学生だった私は、「映画」に関する講義を受講していた。
講義を受け持っていた教授は、映画批評や詩の世界ではけっこう有名な人で、講義中に様々な作家や作品を紹介してくれた。そうしたレクチャーは私の知的世界を拡張し、結果的に、奥底深いカルチャーの沼にどんどん引き摺り込まれることとなった。
2020年冬の講義は、全15回にわたって北野武の映画を観ていく、というものだった。期末レポートでは「北野武監督についての作品論もしくは監督論」を作成することになっており、当時の私は『アウトレイジ』の作品論を書いたのだと、つい先日、思い出したのである。
大学を卒業して、Wordのライセンスも切れてしまった私のPCに眠らせておいたらいつデータが消えるかわからないし、ブログのひとネタとして、載せておこうと思う。
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1はじめに
本レポートは、◯◯◯◯論「◯◯◯◯2020」の期末レポートとして、北野武監督についての作品論もしくは監督論を作成するものである。
ここでは、授業で取り扱っていない作品である、二〇一〇年公開の『アウトレイジ』の作品論を題材とする。具体的には、作中のいくつかのシーンをおおむね時系列に沿って取り上げつつ、作品全体をみて想起された「惨死の展覧会」という大きなキーワードについて論じていく。
2 惨死の展覧会
まず、映画の冒頭部分、やくざ(と思われる。まだこの時点では判別できない)達の上半身を舐めるように右から左へ水平移動するショットから開始される。ここでは、小沢(杉本哲太)だけ薄いワインレッドのスーツを着ており、他のやくざとは一線を画す地位にいることを観客に理解させる。
加藤(三浦友和)と池元(國村準)、そして大友(たけし)と関内(北村総一朗)の関係性がそれとなく示された後、画面の奥から手前へと続く道路を上から捉えたショットが続く。会合を終えたやくざ達が乗る黒塗りの車列が、機械で操作されているかのごとく車間距離をギリギリまで詰めた状態で連なっていく。その車列が去ると、ちょうど道路にかぶる位置に赤文字でスタッフ・クレジットが表示される。これまでのシーンにおけるやくざの縦社会・男社会的な部分、そして、一つの組織のごとく連関して走り去った車列を目にした直後であるからか、スタッフ・クレジットが、やくざの組員名簿であるかのように思えてくる。これは、組織と組織(やくざ同士)の抗争を、神の視点にいる組織(映画製作スタッフ)が操作するという、やくざ映画の構造それ自体を示唆するものではないかとも思える。
そして、前の車列から離れて2台の黒塗りが手前へ向かって来たかと思うと、カメラは段々と道路に平行になるように移動し、ちょうど画面一杯に車を直上から映すタイミングで、車体のルーフ部分に「OUTRAGE」とタイトルが映し出される。鈴木慶一による、ノイズミュージック的要素を含んだシリアスな劇伴も相乗し、緊迫感のあるシーンとなっている。
場面は変わり、キャバクラでサラリーマンらしき人物がぼられている(このキャバクラの店内も異様にがらんどうとしていて、『その男、凶暴につき』(一九八九)の仁藤の事務所を想起させる)。サラリーマンは客引き(飯塚=塚本高史。後に村瀬組組員だとわかる)に代金を支払うため、事務所へ連れて行くが、実はサラリーマン風の男はたけし率いる大友組組員であり、この場面ではじめて大友組の面々が勢揃いする。大友組の面々は、顔の知られている俳優が多く、観客はすぐにそれぞれが誰であるかを認識できる。しかし、『3‐4x10月』(一九九〇)の沖縄での六人組、『ソナチネ』(一九九三)の六人組などこれまでの監督作品に登場した組織(一味)と比較すると、全員が黒や灰のスーツで身を固めており、あくまでやくざ然とした振る舞いからは人間味が感じられない。後に、石原(加瀬亮)以外の組員は殺害されることになるが、『ソナチネ』におけるケン(寺島進)の殺害が意外さと悲哀を湛えていたのに対し、本作における殺害シーンは、ほとんど観る者の了承のもとにあるように思える。つまり、「誰が」殺されるかではなく、「どうやって」殺されるかというところに力点が置かれている。その意味では、「人間離れ」している本作の登場人物は、ゾンビ映画におけるゾンビのように記号化しているとまで言ってしまいたい。
その後、責任をとった飯塚に加え、若頭である木村(中野英雄)も指詰めを要求される。カッターナイフで指を切るという残酷な場面だが、北野映画では初めてと言えるくらい、直接的な残酷描写がある。指詰めといえば、『3‐4x10月』において玉城(渡嘉敷勝男)が大きな将棋駒で指を詰めたシーンを想起するが、ここではそのようなコミカルな要素はない。
岡崎(坂田聡)が飯塚や木村によりあっけなく殴り殺された後、飯塚は故郷の青森(ここも逃亡先としては典型的である)へと逃亡を図るが、大友組のヒットマンに新幹線の車内で銃殺される。シーンを説明すると、新幹線の車両がトンネルに差し掛かり、車内が暗闇になった瞬間、発砲に伴う閃光が走り(銃にはサイレンサーが付いており、発砲音はかき消される)、その直後にシーンが切り替わるというものである。このシーンに至るまで、飯塚・中野による岡崎への殴打、水野(椎名桔平)による江本(柄本時生)への殴打、安倍(森永健児)による飯塚の仲間への殴打など、泥臭く鈍い暴力が続いていたことからも、拳銃を用いた一瞬の暴力、しかも閃光のみによる表現が強調される。これは、カッターナイフが皮膚へ食い込み、流血する様を直視させる描写とは正対しているといえる。
そして、観る者はここで、以下のような、本作における三種類の暴力表現を確認する。
A)身体や武器による殴打
B)拳銃による銃撃
C)直接的な残酷描写
このうち、A)身体や武器による殴打や、B)拳銃による銃撃は、これまでの監督作品でもよくみられた表現である。しかし、C)直接的な残酷描写については、北野の監督作品では二〇〇〇年公開の『Brother』を除いては(知る限り)みられない。むしろ、『アウトレイジ』の残酷描写は、『Brother』で試行された残酷描写の拡張とみてよいのではないか。
その後、大友組の手により、村瀬(石橋蓮司)が歯医者にて治療用ドリルで口内を穿孔される。ここもC)直接的な残酷描写となるが、木村の指詰めシーンとは少し趣が異なり、尋常でない流血がむしろ非現実感をもたらす。さらに、重傷を負った村瀬の姿(マスクをし、顎に固定器具をつけている)が口輪をつけている犬のようで滑稽である。と同時に、口輪が犬の噛みつき防止のためにあるのと同様、村瀬にとっての固定器具は、その発話を不可能にするものであり、村瀬の権力が失墜していくことの表徴の役割を果たしている。
そして、観る者は徐々に、「残酷描写はギャグのひとつである」ということに気づく。つまり、『アウトレイジ』とは、様々な種類の残酷描写・殺害方法の展覧会であり、暴力がエンターテイメント化しているということである。
やがて、治外法権がはたらく「グバナン共和国」大使館内に闇カジノをひらいた大友組は莫大な収入を得るが、出所不明の麻薬売買が行われているという中華料理屋に乗りこむ(中華料理屋の外観は『3‐4x10月』でタンクローリーが突入したヤクザ事務所、『ソネチネ』で村川組に用意された事務所の外観とそれぞれ類似している)。ここでは、店長(マキタスポーツ)が菜箸を右耳に突き立てられ、中華包丁で切断された指が勢いよく飛び、調理されていたタンメンの器に着地する。村瀬の歯医者でのシーン同様、C)直接的な残酷描写に分類されるが、本業がお笑い芸人であるマキタスポーツのコミカルな演技(『HANA‐BI』(一九九八)のつまみ枝豆のように理不尽な暴力に見舞われる)や、切断された指がタンメンの器に着地し、それがそのまま来客へと提供され、しかも、その来客は携帯ゲームに夢中で指に気づいていないという「フリ」と「オチ」など、ギャグ要素で満たされているシーンである。村瀬の歯医者におけるシーンを経験している鑑賞者は、残酷描写がギャグであるということに合点しているため、エンターテイメントとして本シーンを「楽しむ」ことができるであろう。
麻薬の出所が村瀬であることを突き止めた大友は、サウナで村瀬とその部下を射殺する。これはB)拳銃による銃撃だが、『その男、凶暴につき』や『ソナチネ』でみられたような「意外性のアクション」を伴う銃撃とは趣を異にする。ここでは、①発砲音に驚く村瀬たち②サウナに入る大友③大友の姿に驚く村瀬たち④サウナに入り村瀬たちを睨みつける大友⑤驚く村瀬たち⑥銃を構える大友⑦後ずさりする村瀬たち⑧発砲する大友、というように、実に八回もの切り返しでシークエンスが形成されている。これは『アウトレイジ』と前述の二作の演出方法に差異があるというよりも(『アウトレイジ』でも「意外性のアクション」と呼べるものは存在する)、場面によって銃撃の性質を使い分けているといえるだろう。よって、B)拳銃による銃撃という分類は、さらに細分化されるべきである。
この件で関内に破門を言い渡された大友は、自らの指を詰めて関内を訪れる。そして、関内の煽動のもと、池元を殺害する。この殺害方法も、口を開いて舌を出したところを下から顎に打撃を加えて舌を噛ませるというもので、A)かつC)であると分類できるだろう。これは、『Brother』にあった「鼻に割り箸を突っ込み、それを下から突き上げる」という暴力描写と通じるものがある。通常の頭部への殴打が、上から下へ拳や武器を振り下ろすのに対し、これらの暴力は下から上へ突き上げるという点で、その残酷さを増幅させている。人体の頭部・顔面の構造が、上から見下ろすと堅牢な頭蓋骨で守られているのに対し、下から見上げると顎や鼻孔など弱点を晒していることも、この残酷性の増幅にかかわっているだろう。
加えて、この場面では「舌を出せ」というせりふが繰り返され、北野武の口腔への執着が感じられる。たとえば、村瀬のドリルでの口内穿孔をはじめ、『その男、凶暴につき』では清弘(白竜)の口内に拳銃を押し込み、『HANA―BI』ではやくざ(森下能幸)の口内に銃弾を詰め込んでいた。その後、大友組組員は、手榴弾による爆殺を皮切りに、カーアクションの後の銃殺、トイレの個室での銃殺など様々な方法・シチュエーションで殺害され、いよいよ「惨死の展覧会」めいてくる。なかでも水野が「ドライブ」と称され連行されたのち、車止めと頸部とを縄で繋がれ、車を急発進することで頸部を締め上げられるという殺害方法は、直接的な残酷描写は無い(水野は顔を布袋で隠されているため、首元がどう破損したのかは伺い知れない)にもかかわらず、頸部を締め上げる効果音、そして、縄で繋がれたままの死体を遠くから捉え続ける冷淡なロング・テイクが恐怖を醸成している。
また、シーンの途中に水野の女(渡辺奈緒子)の刺殺死体のカットが挿入されるが、胸部に血液が付着した裸の死体は、アラン・ロブ=グリエ『快楽の漸進的横滑り』(一九七四)でのイメージを想起させる。また、大友の女(板谷由夏)も死体となっているカットがこの以前に挿入されているが、内腿に血液が付着し、濃紺のキャミソールを着用している姿は、同じくロブ=グリエ『囚われの美女』(一九八三)で道路に横たわっていた女の死体と酷似している。
いずれにせよ、本作においても、従来の北野作品と同様、女優排除の傾向がみられるだろう。本作で物語に関わる主要な女性といえば、グバナン共和国の大使に仕掛けられた美人局に協力した女(椎名英姫)、大友の女、そして水野の女といったところだが、いずれにせよ登場シーンは僅かで、死体、あるいはニセの死体となったカットが挿入されている。結局、本作における女優の役割は、その華やかな流血をもって「惨死の展覧会」に加わることではないかと思う。
結局、物語は、加藤が小沢と関内を銃殺するというサプライズをもって結末を迎える。しかし、過去作にみられたようなたけしの自滅(自殺)志向は、大友が片岡(小日向文世)にあっさり逮捕されることで一旦は消滅し、続編へと続くことになる。
3 おわりに
以上を総括すると、『アウトレイジ』は、過去作でもみられた「身体や武器による殴打」、「拳銃による銃撃」に加えて、「直接的な残酷描写」という第三の暴力が、様々なシチュエーションをもって展開されている。また、キャラクター造型の淡白さと、ギャグ要素を含んだ残酷描写、そして、物語後半でなだれ込むように次々と繰り広げられる惨死により、暴力のエンターテイメント化がなされ、全体としてバイオレンス喜劇に近いものとなった。『3‐4x10月』『ソナチネ』など、これまでのやくざ映画と作風を異にする今作では、複雑化し収拾のつかなくなった壊滅への物語の細部に目を向けるというよりも、繰り広げられる暴力の応酬、そして、多彩な残酷描写とそれにまつわる惨死を享楽するのがよいのではないだろうか。
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この期末レポートが課された時期、大学近くのTSUTAYAでは北野武作品が一斉にレンタルされていたことを思い出した。みんな何を借りていたんだろうか。どんなレポートを書いていたんだろうか。
詩を読めなくなったわたしへ
むかしは現代詩の詩集をよく読んでいた。
黒田三郎『小さなユリと』、中桐雅夫『会社の人事』、飯島耕一『ゴヤのファースト・ネームは』......
大学2年生の頃だったか、いわゆる「戦後詩」とよばれる作家たちの作品を中心に読み始めた。古本屋に行っては、ちょっとすすけたような、それでいて妙な存在感のある背表紙に目を凝らして、詩人の名前と、タイトルを、知らず知らずのうちに覚えていった。
詩集のタイトルは、どれもこれも、なんだかへんちくりんだった。
『ゴヤのファースト・ネームは』なんて、一体、何が書かれているのか、まったく想像もつかなかった。
でも、『ゴヤのファースト・ネームは』を開いてみると、そこには、
「何にも興味をもたなかったきみが ある日 ゴヤのファースト・ネームが知りたくて 隣の部屋まで駆けていた。」
「生きるとは ゴヤのファースト・ネームを知りたいと思うことだ。」
なんてことが、書いてあった。参ったな、と思った。
詩中の「きみ」は作者の飯島耕一自身である(だろう)。
みすず書房の作品紹介https://www.msz.co.jp/book/detail/04733/によれば、作者自身の「精神的な危機の回復」を謳いあげたものだという。
いま思うと、『ゴヤのファースト・ネームは』というタイトルが、それ自体ほんとうに魅力的だった。詩の強さは、ことばの強さ、なかでも、ことばの組み合わせの強さだった。「ゴヤのファースト・ネーム」ということばの強さと、それを肉付けするように支える詩の数々、静かながらもほとばしる「精神的な危機の回復」へのよろこび......。
ことばが集合してひとつの内容になるのが小説や評論だとしたら、一つ一つのことば自体が内容を形作るのが詩だった。ことばがリズムをつくり、つくられたリズムは頁から次の頁へと浸透し、やがてひとつの固有の世界をもった詩になるという、その構造に、心を惹かれた。

左から飯島耕一『飯島耕一詩集』『続飯島耕一詩集』思潮社、中桐雅夫『会社の人事』晶文社
一方で、文章を書くことは、それ自体、ことばの力を減衰させていく、と感じる。
自由に紡がれているようにみえることば達も、文章としてそこにあるからには、徹底的に、緻密に、もうそれ以外ないという位に並べられている。こうしてブログを書いている私も、ほんとうに疲れ果てている。文章を書く、それ自体のどうしようもない苦渋は、たしかにある。そして、自分の思考を思うがままにことばにできないもどかしさを感じる。ことばがなければ思考はできないが、思考はそのままことばにはならない。
私は、その苦渋やもどかしさを、あの魅惑的な詩の数々から、ほのかに感じ取ってしまったのだと思う(果たしてそれは、
私にとって、詩との出会いとは、天啓にうたれるようなものだったと、確かにいえる。ただ、そのうち、詩からわずかに染み出す人間の汗のにおいに勘づき、完璧な構造のなかに充満する緊張感に気圧されてしまった。
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この前、久しぶりに詩を読んだ。鮎川信夫の「死んだ男」、高校国語の教科書にも登場する、戦後詩の代表となる作品である。
初めて目にしたのは大学に入りたての頃で、だから、7年ぶりくらいに読み返したことになる。初めて読んだときもそうだったけれど、やはり、他の作品にはない、言葉の強さを感じる。こんな感覚を得るために、いろいろな詩を読んでいた。それでも、滅多に出会えるものではない、と思う。
1947年に書かれたから、77年前のことばが、その時の強さで、今の私に届いているということが、なんだか不思議になってしまった。ことばの強さとは、ことばそれ自身が作りあげた構造をのりこえる強さなのだ。
詩を読めなくなったということは、やっと、ほんとうに詩を読む準備ができたということなのだと、やっと、わかった。詩集の一頁一頁に張り巡らされている構造を認識し、その先にあるもの──ことばになる前のもの?──に手を伸ばせるのだろうか。
柴口勲の映画を観た
柴口勲という映画監督の名前を知ったのは2014年のPFF(ぴあフィルムフェスティバル)だった。
PFFの公式サイトにいくと、その年の入賞作品が、いち場面を切り取られて紹介されている。そのなかに、夏の陽光の下でセーラー服を着た女子生徒が左手を軽く上げて伸ばしている――でも、左手の先に乗せているものが何かは判らない――作品があって、いち場面だけなのにとても印象に残っていた。それが柴口勲監督の『ひこうき雲』だった。
2014年当時、岩手県の田んぼの中で中学生活を送っていた私にとっては、PFFの作品を観るために東京へ行くことはとてもできなかった。そして、結局、2023年の今まで、柴口勲監督という名前を聞くことはなく過ごしてきた。
そして2023年8月、新宿のK's CInemaで柴口勲監督の特集上映が行われるらしい、ということを知った。と同時に、あの『ひこうき雲』の監督であること、若手の自主映画作家だと思っていたら実はおじさんだということ、そしてもう亡くなっていることも知った。
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追悼上映のラインナップは、遺作となった長篇『ウソトホント』、短篇作『ひこうき雲』『夏を撮る』、その間に撮られた長篇『隣人のゆくえ』という4作品。そのなかで『隣人のゆくえ』は、唯一無二の映画だと思った。衝撃を受けた、と言ってもいいくらいだった。
まず、柴口監督作品のカメラは常に揺れている。微妙に動いていて、静止している場面がない。低予算自主映画ゆえの機材事情などあったのかもしれない。けれど、敢えて微妙な「揺れ」を残していたのだと思う。今回の4作品はどれも、ティーンエイジャーの心情の機微をセンチメンタルに描いている(社会問題や戦争という大きな主題はあるけれど)。そして、柴口監督は地元の下関で、プロの俳優ではなく自身の母校や地元の中高生を役者として起用し、作品を作り上げている。
だからこそ、役者として画面のなかで演技をする瞬間にも、下関に住むいち中高生という存在が滲み出してくる。その虚構と真実の微妙なあわいのようなものを、柴口監督のカメラは「揺れ」ることにより捉えている。
そして驚くべきことに、『隣人のゆくえ』では、出演、作曲、演奏、振付、撮影、録音、照明を実際の中高生が手掛けているらしい。柴口監督のカメラが捉えているというよりも、中高生自身だからこそ、その実際の感覚をもって、微妙なあわいを捉えることができたのだろう。
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『隣人のゆくえ』は、第二次大戦の空襲で焼け残った山口県下関市の梅光学院を舞台に、ひとりの少女がミュージカル部の練習に偶然出会うところから物語が始まる。
部の練習風景や女子生徒同士の会話が繰り広げられる場面は、全体的に淡い光に包まれて『櫻の園』を思い起こさせる。一方で、かつて学校が経験した戦争と空襲の気配もかすかに漂っていて、物語は途中で大きな転換点を迎える――。
けれど、この映画はとうてい、ジャンルで分けることはできない。「戦争の悲惨さを訴える」「空襲の被害を現世に伝える」というメッセージ性を確かに持ちつつも、出演、作曲、演奏、振付、撮影、録音、照明というあらゆる面において生身の中高生自身がその感覚を発揮した記録として、生々しいドキュメントとしても観ることができる。そして、この映画を支配するのはせりふというより歌声と身体である。全編を通してミュージカルのシークエンスが挿入され、それが物語の骨格をつくっている。そのシークエンスひとつひとつにある歌声と身体の振る舞いが、せりふという言葉としての形に比べて、より説得力をもって観るものに迫ってくる。
そして、建物が持つ記憶や「場所の記憶」という意味では『わたしたちの家』を思い出す。かつてそこにいた人、あったもの、あったことはじわりといまこの空間にも広がっている、そしてわずかに触れることができる。そういう感覚を表現しようとした作品といえるかもしれない。
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『隣人のゆくえ』は今のところDVDなどの媒体で販売されることも、配信されることもなさそうなので、たまに映画館で上映されるチャンスを待つしかない、ということになる。これじゃあ友人におすすめしても、なかなか観てもらえる機会はなさそうだな、と考えたりする。
でも、劇中で少女たちは「永遠なんてあるのかな?」「一瞬のうちにひそんでるよ」と高らかに歌い上げている。たしかにそうかもしれない。「映画館で観る」という一瞬の体験とともにこの映画はある。そんな気がしている。

2018年マイ・ベスト・アルバム?(洋楽編)
もう2月中旬になろうかという頃ですが、去年(2018年)によく聴いた洋楽のアルバムを紹介します。
しかし邦楽編とは違って、洋楽は聴いていないアルバム(特にラップ・ヒップホップ系)も多くて、チャートで上位のものなど様々なものを聴いた上でのベストというより個人的に気に入ったものをラインナップしただけ、といった具合になります。
順位はベスト5だけつけて、あとは発売日順に並べることにしました。
加えて、spotifyとyoutubeへのリンクを貼っておきます。
Superorganism/Superorganism
Iceage/Beyondless
Waxahatchee/Great Thunder
Villagers/The Art Of Pretending To Swim
Carl Broemel/Wished Out
Amber Arcades/European Heartbreak
Lala Lala/The Lamb
Marissa Nadler/For My Crimes
HARETS/New Compassion
Fucked Up/Dose Your Dreams
Swearin'/Fall into the Sun
Kurt Vile/Bottle It In
Valley Maker/Rhododendron
Connan Mockasin/Jassbusters
Papercuts/Parallel Universe Blues
Nao/Saturn
Bill Ryder-Jones/Yawn
The good, the Bad & the Queen/Merrie Land
【ベスト5】
5. Shame/Songs of Praise
4. Spiritualized/And Nothing Hurt
3. The Lemon Twigs/Go to School
2. Mourn/Sorpresa Familia
1. Idles/Joy as an Act of Resistance
1位のアルバムにひとこと:男くさくて最高。
2018年マイ・ベスト・アルバム(邦楽編)
毎年恒例、一年の音楽を総括する時期が来た。
各メディアやとてもつよい音楽マニアたち(褒め言葉)のブログを参照すればいくらでも「2018アルバム・ランキング」なんて記事は出てくるけれど、自分には月に何枚もアルバムを買う資金はないし、仮に「ベスト50」を決めようとしても、そもそも50枚なんて新作は聴けるはずがないのだ。
それでも、レンタルやサブスクを駆使しながら、なんとかベスト21を決めることができた。
ここでは、〈アルバムは聴いてないけどこの曲はよく聴いたよね部門〉、〈アルバム部門〉の2つの部門を設けたいと思う。
〈アルバムは聴いてないけどこの曲はよく聴いたよね部門〉ではその名の通り、アルバムを通しては聴いていないけど、曲単位でよく聴いたものをピックアップしてベスト4にした(少ない)。
〈アルバム部門〉ではフルアルバム(一部ミニアルバム)を対象としてベスト21を掲載する。
アルバムについて、spotifyがあればそのリンクと、youtubeへのリンクを貼っておきます。
〈アルバムは聴いてないけどこの曲はよく聴いたよね部門〉
4.DAOKO『終わらない世界で』
My Little Loverの『Hello,Again』とか好きなだけあって、CMでサビの部分だけを聴いたときに「これはいい」となった曲。調べたら作曲は小林武史と知って納得。
フルで聴いても、柔らかくセンチメンタルなポップさだけでなく、DAOKOの持ち味であるラップパートもちゃんとあり、曲全体のバランスはよかった。あと「頑張ってみるから 終わったら抱きしめて」という歌詞はDAOKOが歌うことで説得力が生まれる。
3.テンテンコ『Animal’s Pre-Human』
声が幼いから童謡のような曲にも思えるが、neco眠るとコラボしているだけになかなかカオス。 歌詞も、人間の偽善や無責任さを批判して、辛辣に「猫の方が賢い気がする」と、このMVをバックに歌われていてなかなかカオス。MVは無機質で気持ち悪くて最高なので是非、一緒に聴いてほしい。
2.Lucie,Too『Lucky』
イントロのジャキジャキのギターが既にいい。既にいいのだけど、サビを、サビとも言えないようなあっさりした、潔いものにしようとした心意気が本当に素晴らしい。サニーデイ・サービス『青春狂走曲』もこの構成だけど、「A→B→サビ→A→B→サビ」ではなく「A→B→A→B」という構成が、洋楽では普通にあるけれど邦楽ではほとんど見かけない。バンド初のアルバムのリード曲が「A→B→A→B」で、それでいてスリーピースのガールズバンドなんて、好きにならないわけがない。
今年を象徴する曲といえばこれ。非常にキャッチーで、なぜ好きなのかと聞かれればキャッチーだから、となるのかもしれないが、それだけでは終わらない何かがある。普段あまり音楽を聴かないような人も星野源の新曲やアルバムは聴いている、ってすごいことじゃないかと思う。
アルバムはまだ聴いていないのでランキングに入れるとしたら来年になるんじゃなかろうか。ミュージック・マガジンもそうなるかもしれない。MUSICAのランキングにはアルバム発売前にも関わらず入っていたけど、あれは何だったんだろうか・・・幻・・・?
〈アルバム部門〉
21.横沢俊一郎『ハイジ』
新鋭宅録SSWによるファーストアルバム。ジャケットだけ見ると爽やかだが、曲は変態サイケドリームポップという感じでクセがすごい。フリッパーズ・ギターやディーパーズのような少年風のボーカルに厚いエフェクトがかかり、アルバム全体に浮遊感がある。イントロのシンセが強烈なキラーチューンの『こんな感じのストーリー』、ギターが特にサイケなバラード『僕ら無敵さ』など、耳に残る曲も多く、これからの活動も楽しみ。
20.betcover!!『サンダーボルトチェーンソー』
洒落た音作りをしながらも、どこか歌謡曲的な懐かしさを感じる。
重めのドラムイントロから一転、一拍置いて曲調が変わり、ハミングが心地よい『新しい家』、フィッシュマンズのようなミドルテンポ曲『平和の天使』などいい。
19歳が作ったとは思えない渋めのテイストが面白いし、個人的には同世代のアーティストとして期待を寄せている。
19.バレーボウイズ『なつやすみ’18猛暑』
第一声から力強い1曲目の『アサヤケ』や、『海へ』『卒業』など、海&青春&サイダーという夏休み感満載のアルバム。何より、合唱のもつグルーヴ感に目を付けてロックサウンドに乗せたという試みが面白いし、どの曲もメロディーが優れていて耳なじみがいい。綺麗にハモっていそうでハモりきっていないのもいい。
18.アナログフィッシュ『Still Life』
どんどんお洒落になっていくアナログフィッシュの、安定感あるアルバム。『静物/Still Life』や『Uiyo』などの柔らかくグルーヴィーな曲も持ち味だが、その一方で『Dig Me?』のような力強いポップもアナログフィッシュらしい。何にせよ、2人のコーラスワークは一級品である。
17.冬にわかれて『なんにもいらない』
寺尾紗穂のボーカルの魅力はそのままに、バンドアンサンブルがとても優れている。ポップ・ジャズ・ソウルなど様々な音楽を孕みながら、暴れまくるといってもいいほど跳ねるバックバンドを寺尾のボーカルが優しくまとめ、アルバム全体の雰囲気は、激しいながらも落ち着いた奥深いものに仕上がった。
16.羊文学『若者たちへ』
きのこ帝国の影響を感じる鋭いギターサウンドもさることながら、メロディセンスのよさも秀でている。特に『Step』は繊細さと力強さが同居した傑作で、2018年のベストソングといってもいい。あと、シークレットトラックは(狙ったものだと思うが)聴いていてとても不気味。この不気味さをうまく融合させたような曲も聴いてみたい。
15.きのこ帝国『タイム・ラプス』
前々作『猫とアレルギー』ではその持ち味が失われたように思えたきのこ帝国だが、このアルバムは『フェイクワールドワンダーランド』以前のギターサウンドとメジャーデビュー後のポップなメロディーとのバランスよく仕上がっている。
『WHY』や『夢みる頃を過ぎても』は印象的なメロディーだったし、『金木犀の夜』を筆頭にセンチメンタルな雰囲気をアルバム全体が纏っている。
14.Klan Aileen『Milk』
本能的に、死臭を漂わせながら黒い塊がうごめいているという印象のアルバム。洞窟の中で聴いているような、強烈なリバーブがかかったボーカルやギターの音色は深い水の中で鳴っているようにも思える。
不穏かつ雄大なリフが頭から離れない『脱獄』『流氷』、制御を失ったような硬いギターが前面に出た『Masturbation』など、邦楽ではあまり耳にすることのできない外国の空気感あるサウンドが目白押しである。
13.D.A.N.『Sonatine』
メロディーの美しさが際立つ『Chance』、タブラがユニークな『Replica』など長めの曲と、『Cyberphunk』『Debris』などインタールード的小曲のバランスがよく、聴いていて心地よい。
中でも『Borderland』は10分を超える長尺で、満足いくまで酔うことができる。
12.シャムキャッツ『Virgin Graffiti』
Blurの『Go out』を彷彿とさせるリズミカルなギターリフが特徴的な『逃亡前夜』、『完熟宣言』などストリングスやコーラスに趣向を凝らしたギターポップ、アルバムを締めくくる名曲『このままがいいね』と、いい意味で力の抜けた、優しい雰囲気のアルバム。クラブミュージック的なグルーヴが全編通して気持ちいい。
11.Helsinki Lambda Club『Tourist』
ヘルシンキ・ラムダ・クラブといえば前につんのめるような曲が印象的で、例えばアクモン、Andymoriの系譜かと思っていたけど、このアルバムでは本来の、メロディアスで小気味いいギターサウンドが光っている。
サビが軽やかな『マリーのドレス』、Pavementっぽくて一番好きな『引っ越し』、遊び心を入れつつやっぱりかっこいい『ロックンロール・プランクスター』、一拍おいたリフがたまらない『何とかしなくちゃ』など、若手ロックバンドの中では最も信頼できると思ったアルバム。
10.おとぎ話『眺め』
1曲目の『HOMEWORK』を筆頭に、『HEAD』などサビがあまり目立たない、ループミュージック的な曲構成が特徴的。
加えて、『ONLY LOVERS』『綺麗』『魔法は君の中に』など、おとぎ話の持ち味ともいえるメロディーの良さも十分に発揮されている。特に『綺麗』はおとぎ話史上最上級のメロディーだと個人的に思う。
9.Homecomings『WHALE LIVING』
バンドとしてはじめての日本語詩も、アルバムの雰囲気に合うような優しい物語調でいい。個人的には『HURTS』のようなディストーション気味のサウンドが好きだけど、このアルバムはこのアルバムで、ネオアコ・フォークのジャンルとして聴ける。『Songbirds』だけ毛色が違うようにも思えたが、おそらく『WHALE LIVING』という一つの物語を、また違うレイヤーから締めくくるエンドロール的な役割を果たしていて、そう考えるとあまり違和感はない。
Homecomingsはよくウェス・アンダーソン作品やその劇中の音楽に影響を受けたとインタビューで言及しているけれど、この『WHALE LIVING』は『ムーンライズ・キングダム』とよく雰囲気が似ていて、ニューイングランドもしくはスコットランドの田舎の海岸にある小さな町を想起させる気がする。
8.KIRINJI『愛をあるだけ、すべて』
バンド体制になったのちコトリンゴが脱退したKIRINJIだが、このアルバムでは海外の音楽シーンをふまえ、よりエレクトロニックな、テクノ・ダンスミュージック色を強めた。
それでもメロディーの良さは健在で、『AIの逃避行』『時間がない』などの特にポップな曲、『After the Party』『悪夢を見るチーズ』など少しひねくれた曲、『新緑の巨人』『silver girl』など後半にかけてのメロウな曲と、バラエティ豊かに完成度の高いポップスを鳴らしている。新生KIRINJIの現時点での決定版となるアルバム。
https://youtu.be/iboM79ANVuo
7.Taiko Super Kicks『Fragment』
飄々としていながらもどこか薄気味悪い感じはOGRE YOU ASSHOLEやミツメの系譜にはあると思う。ただ今作は『低い午後』などの時期と比べて、クリアなギターサウンドと切れ味いいアンサンブルが弾けていて、気味の悪さは抜けてきた気がする。
一方で『うわさ』のようなフォーキーで懐かしいテイストもあって、硬くて冷たい印象のアルバムながら、スムーズに脳に浸透する緩やかさを持ち合わせた、不思議なアルバムである。
ただひとつ、『のびていく』なんて聴きやすい方ではあるけれど、できれば次のアルバムではひとつだけとびきりポップでキャッチーな曲を作ってみてほしいという願望もある。
6.くるり『ソングライン』
くるりの4年振り、12枚目のアルバム。前作『THE PIER』が様々な要素を詰め込んだ、多国籍風アルバムだとしたら、この『ソングライン』はフランスの農園でひなたぼっこをする牧歌的なアルバムである。チオビタのCMに使われた楽曲だけを集めた『くるりとチオビタ』というコンピアルバムがあったが、雰囲気はそれに近い。しかし、タイトル曲『ソングライン』にしても、シンプルなサウンドと思いきやとんでもない多重録音で色々な音が鳴っているから、そういう奥深さを味わうのが面白い。
5.カネコアヤノ『祝祭』
バンドサウンドが特にマッチしている、と思った。弾き語りもいいけれど、フルアルバムとして聴くとなるとやはりバンドセットの方がいい。
1曲目『Home Alone』から『ごあいさつ』までの、特にロックバンド的な、強いボーカルの流れ、『ジェットコースター』『ゆくえ』あたりの弾き語りに近い静かな曲たち、そして『グレープフルーツ』『アーケード』。
『祝日』が名曲で、このアルバムの核であることは間違いないけれど、それ以外も捨て曲なし。
それにしても、華奢な体で幼げなルックスなのに力強い歌声で弾き語る、というカネコアヤノそのものの要素があまりにも漫画的・フィクション的で、本当にカネコアヤノって実在するのかな?と思うことがある。
もはや伝説上の存在と化していた天才・国府達矢が15年振りにリリースしたアルバム。とりあえず、こんなへんてこで格好いいアルバムを聴けるのは2018年の”事件”だった。
民謡を感じさせる独特なボーカル、極限まで鋭いリズム隊、それ自体もリズムを生み出し続けるカッティング主体のギター、それらが融合した強烈なグルーヴなど、言語化するのもやっとな、鮮やかな音楽体験があった(『薔薇』『感電ス』『祭りの準備』など特に)。
3.折坂悠太『平成』
ジャズ・ソウルなどのテイストを感じさせつつ、歌謡曲的な、和風の懐かしさがそれぞれの曲に通底する、不思議で魅力的なアルバム。
ピアノ・シロフォン・マンドリン・コンガなどを取り入れた遊び心ある音作りだけでなく、そこで歌われている歌詞もまた力がある。
リード曲『平成』だけを聴くと、ともすればとっつきにくさを覚えるかもしれないが、『坂道』『逢引』なんかはポップ・ソングとしても聴けるほど耳馴染みがいいメロディーである。
しかしながら、このアルバムの全貌はまだ掴めていないように思う。もう少し聴きこまなければならない。
2. ROTH BART BARON『HEX』
新しいのに懐かしい、デジタルなのにアナログ、冷たいのに暖かい...あらゆるものの橋渡しをする記念碑的名盤。
コーラスが神々しささえ感じさせる『JUMP』『Homecoming』から始まり、リード曲『HEX』、低音がよく響く『VENOM』、テクノ・ポップ的アプローチの『JM』、コーラスを手がけたL10MixedItらしさがよく出ている、ヒップホップのようなトラックをバックにメロディーが美しい『SPEAK SILENCE』と、現在の海外の音楽シーンに肩を並べるような名曲ばかりである。メロディーはどこを切り取っても美しく、コーラスを多用した重層的なボーカルはポップ・ミュージックというよりも教会で歌われるような宗教音楽、特にゴスペルを思い出させる。
1.cero『POLY LIFE MULTI SOUL』
ceroの4thアルバム。今までのceroといえば、都会的・聡明さというイメージが強かったけれど、この作品では民族音楽の要素が強く、土埃の匂いを感じるようなお祭り的ムードが漂っている。リズム隊も民族音楽よろしく目立っていて、このアルバムを流しておくだけでずっと踊れる。先行でYoutubeに『魚の骨 鳥の羽根』がアップされて聴いたときには難解だと思ったが、アルバムを通して聴いてみると一番ポップだった。
このアルバムについて語るのはたやすいことではない。驚くほど多くのアイデアとイメージが繊維のように複雑に組み合って、アルバムはひとつの固い生地のまま手元にある。どこからどう解いていこうか、手がかりもなく途方にくれているが、ただひとつ言えるのはケンドリック・ラマーやディアンジェロがチャートを席巻しているこの時代において、ceroもまたポップ・ミュージックにおけるグルーヴの追求をしているのは何ら不思議ではないということだ。ヒップポップやソウルと”ジャンル”こそ違えど、アフロビートを解釈しながら、グルーヴの可能性を探っていくことには変わりない。すなわち、ceroはヒップホップやソウルとポップ・ミュージックの境界線を曖昧にする使者なのである。
2018年、平成が終わる年、日本のポップ・ミュージックにおけるソウル/クラブ/民族音楽の世界を更新するようなアルバムが現れたことを祝福したい。
