北野武『アウトレイジ』(をみた大学生の私は何を感じていたのか)
いまから3年半前―2020年の冬―に大学生だった私は、「映画」に関する講義を受講していた。
講義を受け持っていた教授は、映画批評や詩の世界ではけっこう有名な人で、講義中に様々な作家や作品を紹介してくれた。そうしたレクチャーは私の知的世界を拡張し、結果的に、奥底深いカルチャーの沼にどんどん引き摺り込まれることとなった。
2020年冬の講義は、全15回にわたって北野武の映画を観ていく、というものだった。期末レポートでは「北野武監督についての作品論もしくは監督論」を作成することになっており、当時の私は『アウトレイジ』の作品論を書いたのだと、つい先日、思い出したのである。
大学を卒業して、Wordのライセンスも切れてしまった私のPCに眠らせておいたらいつデータが消えるかわからないし、ブログのひとネタとして、載せておこうと思う。
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1はじめに
本レポートは、◯◯◯◯論「◯◯◯◯2020」の期末レポートとして、北野武監督についての作品論もしくは監督論を作成するものである。
ここでは、授業で取り扱っていない作品である、二〇一〇年公開の『アウトレイジ』の作品論を題材とする。具体的には、作中のいくつかのシーンをおおむね時系列に沿って取り上げつつ、作品全体をみて想起された「惨死の展覧会」という大きなキーワードについて論じていく。
2 惨死の展覧会
まず、映画の冒頭部分、やくざ(と思われる。まだこの時点では判別できない)達の上半身を舐めるように右から左へ水平移動するショットから開始される。ここでは、小沢(杉本哲太)だけ薄いワインレッドのスーツを着ており、他のやくざとは一線を画す地位にいることを観客に理解させる。
加藤(三浦友和)と池元(國村準)、そして大友(たけし)と関内(北村総一朗)の関係性がそれとなく示された後、画面の奥から手前へと続く道路を上から捉えたショットが続く。会合を終えたやくざ達が乗る黒塗りの車列が、機械で操作されているかのごとく車間距離をギリギリまで詰めた状態で連なっていく。その車列が去ると、ちょうど道路にかぶる位置に赤文字でスタッフ・クレジットが表示される。これまでのシーンにおけるやくざの縦社会・男社会的な部分、そして、一つの組織のごとく連関して走り去った車列を目にした直後であるからか、スタッフ・クレジットが、やくざの組員名簿であるかのように思えてくる。これは、組織と組織(やくざ同士)の抗争を、神の視点にいる組織(映画製作スタッフ)が操作するという、やくざ映画の構造それ自体を示唆するものではないかとも思える。
そして、前の車列から離れて2台の黒塗りが手前へ向かって来たかと思うと、カメラは段々と道路に平行になるように移動し、ちょうど画面一杯に車を直上から映すタイミングで、車体のルーフ部分に「OUTRAGE」とタイトルが映し出される。鈴木慶一による、ノイズミュージック的要素を含んだシリアスな劇伴も相乗し、緊迫感のあるシーンとなっている。
場面は変わり、キャバクラでサラリーマンらしき人物がぼられている(このキャバクラの店内も異様にがらんどうとしていて、『その男、凶暴につき』(一九八九)の仁藤の事務所を想起させる)。サラリーマンは客引き(飯塚=塚本高史。後に村瀬組組員だとわかる)に代金を支払うため、事務所へ連れて行くが、実はサラリーマン風の男はたけし率いる大友組組員であり、この場面ではじめて大友組の面々が勢揃いする。大友組の面々は、顔の知られている俳優が多く、観客はすぐにそれぞれが誰であるかを認識できる。しかし、『3‐4x10月』(一九九〇)の沖縄での六人組、『ソナチネ』(一九九三)の六人組などこれまでの監督作品に登場した組織(一味)と比較すると、全員が黒や灰のスーツで身を固めており、あくまでやくざ然とした振る舞いからは人間味が感じられない。後に、石原(加瀬亮)以外の組員は殺害されることになるが、『ソナチネ』におけるケン(寺島進)の殺害が意外さと悲哀を湛えていたのに対し、本作における殺害シーンは、ほとんど観る者の了承のもとにあるように思える。つまり、「誰が」殺されるかではなく、「どうやって」殺されるかというところに力点が置かれている。その意味では、「人間離れ」している本作の登場人物は、ゾンビ映画におけるゾンビのように記号化しているとまで言ってしまいたい。
その後、責任をとった飯塚に加え、若頭である木村(中野英雄)も指詰めを要求される。カッターナイフで指を切るという残酷な場面だが、北野映画では初めてと言えるくらい、直接的な残酷描写がある。指詰めといえば、『3‐4x10月』において玉城(渡嘉敷勝男)が大きな将棋駒で指を詰めたシーンを想起するが、ここではそのようなコミカルな要素はない。
岡崎(坂田聡)が飯塚や木村によりあっけなく殴り殺された後、飯塚は故郷の青森(ここも逃亡先としては典型的である)へと逃亡を図るが、大友組のヒットマンに新幹線の車内で銃殺される。シーンを説明すると、新幹線の車両がトンネルに差し掛かり、車内が暗闇になった瞬間、発砲に伴う閃光が走り(銃にはサイレンサーが付いており、発砲音はかき消される)、その直後にシーンが切り替わるというものである。このシーンに至るまで、飯塚・中野による岡崎への殴打、水野(椎名桔平)による江本(柄本時生)への殴打、安倍(森永健児)による飯塚の仲間への殴打など、泥臭く鈍い暴力が続いていたことからも、拳銃を用いた一瞬の暴力、しかも閃光のみによる表現が強調される。これは、カッターナイフが皮膚へ食い込み、流血する様を直視させる描写とは正対しているといえる。
そして、観る者はここで、以下のような、本作における三種類の暴力表現を確認する。
A)身体や武器による殴打
B)拳銃による銃撃
C)直接的な残酷描写
このうち、A)身体や武器による殴打や、B)拳銃による銃撃は、これまでの監督作品でもよくみられた表現である。しかし、C)直接的な残酷描写については、北野の監督作品では二〇〇〇年公開の『Brother』を除いては(知る限り)みられない。むしろ、『アウトレイジ』の残酷描写は、『Brother』で試行された残酷描写の拡張とみてよいのではないか。
その後、大友組の手により、村瀬(石橋蓮司)が歯医者にて治療用ドリルで口内を穿孔される。ここもC)直接的な残酷描写となるが、木村の指詰めシーンとは少し趣が異なり、尋常でない流血がむしろ非現実感をもたらす。さらに、重傷を負った村瀬の姿(マスクをし、顎に固定器具をつけている)が口輪をつけている犬のようで滑稽である。と同時に、口輪が犬の噛みつき防止のためにあるのと同様、村瀬にとっての固定器具は、その発話を不可能にするものであり、村瀬の権力が失墜していくことの表徴の役割を果たしている。
そして、観る者は徐々に、「残酷描写はギャグのひとつである」ということに気づく。つまり、『アウトレイジ』とは、様々な種類の残酷描写・殺害方法の展覧会であり、暴力がエンターテイメント化しているということである。
やがて、治外法権がはたらく「グバナン共和国」大使館内に闇カジノをひらいた大友組は莫大な収入を得るが、出所不明の麻薬売買が行われているという中華料理屋に乗りこむ(中華料理屋の外観は『3‐4x10月』でタンクローリーが突入したヤクザ事務所、『ソネチネ』で村川組に用意された事務所の外観とそれぞれ類似している)。ここでは、店長(マキタスポーツ)が菜箸を右耳に突き立てられ、中華包丁で切断された指が勢いよく飛び、調理されていたタンメンの器に着地する。村瀬の歯医者でのシーン同様、C)直接的な残酷描写に分類されるが、本業がお笑い芸人であるマキタスポーツのコミカルな演技(『HANA‐BI』(一九九八)のつまみ枝豆のように理不尽な暴力に見舞われる)や、切断された指がタンメンの器に着地し、それがそのまま来客へと提供され、しかも、その来客は携帯ゲームに夢中で指に気づいていないという「フリ」と「オチ」など、ギャグ要素で満たされているシーンである。村瀬の歯医者におけるシーンを経験している鑑賞者は、残酷描写がギャグであるということに合点しているため、エンターテイメントとして本シーンを「楽しむ」ことができるであろう。
麻薬の出所が村瀬であることを突き止めた大友は、サウナで村瀬とその部下を射殺する。これはB)拳銃による銃撃だが、『その男、凶暴につき』や『ソナチネ』でみられたような「意外性のアクション」を伴う銃撃とは趣を異にする。ここでは、①発砲音に驚く村瀬たち②サウナに入る大友③大友の姿に驚く村瀬たち④サウナに入り村瀬たちを睨みつける大友⑤驚く村瀬たち⑥銃を構える大友⑦後ずさりする村瀬たち⑧発砲する大友、というように、実に八回もの切り返しでシークエンスが形成されている。これは『アウトレイジ』と前述の二作の演出方法に差異があるというよりも(『アウトレイジ』でも「意外性のアクション」と呼べるものは存在する)、場面によって銃撃の性質を使い分けているといえるだろう。よって、B)拳銃による銃撃という分類は、さらに細分化されるべきである。
この件で関内に破門を言い渡された大友は、自らの指を詰めて関内を訪れる。そして、関内の煽動のもと、池元を殺害する。この殺害方法も、口を開いて舌を出したところを下から顎に打撃を加えて舌を噛ませるというもので、A)かつC)であると分類できるだろう。これは、『Brother』にあった「鼻に割り箸を突っ込み、それを下から突き上げる」という暴力描写と通じるものがある。通常の頭部への殴打が、上から下へ拳や武器を振り下ろすのに対し、これらの暴力は下から上へ突き上げるという点で、その残酷さを増幅させている。人体の頭部・顔面の構造が、上から見下ろすと堅牢な頭蓋骨で守られているのに対し、下から見上げると顎や鼻孔など弱点を晒していることも、この残酷性の増幅にかかわっているだろう。
加えて、この場面では「舌を出せ」というせりふが繰り返され、北野武の口腔への執着が感じられる。たとえば、村瀬のドリルでの口内穿孔をはじめ、『その男、凶暴につき』では清弘(白竜)の口内に拳銃を押し込み、『HANA―BI』ではやくざ(森下能幸)の口内に銃弾を詰め込んでいた。その後、大友組組員は、手榴弾による爆殺を皮切りに、カーアクションの後の銃殺、トイレの個室での銃殺など様々な方法・シチュエーションで殺害され、いよいよ「惨死の展覧会」めいてくる。なかでも水野が「ドライブ」と称され連行されたのち、車止めと頸部とを縄で繋がれ、車を急発進することで頸部を締め上げられるという殺害方法は、直接的な残酷描写は無い(水野は顔を布袋で隠されているため、首元がどう破損したのかは伺い知れない)にもかかわらず、頸部を締め上げる効果音、そして、縄で繋がれたままの死体を遠くから捉え続ける冷淡なロング・テイクが恐怖を醸成している。
また、シーンの途中に水野の女(渡辺奈緒子)の刺殺死体のカットが挿入されるが、胸部に血液が付着した裸の死体は、アラン・ロブ=グリエ『快楽の漸進的横滑り』(一九七四)でのイメージを想起させる。また、大友の女(板谷由夏)も死体となっているカットがこの以前に挿入されているが、内腿に血液が付着し、濃紺のキャミソールを着用している姿は、同じくロブ=グリエ『囚われの美女』(一九八三)で道路に横たわっていた女の死体と酷似している。
いずれにせよ、本作においても、従来の北野作品と同様、女優排除の傾向がみられるだろう。本作で物語に関わる主要な女性といえば、グバナン共和国の大使に仕掛けられた美人局に協力した女(椎名英姫)、大友の女、そして水野の女といったところだが、いずれにせよ登場シーンは僅かで、死体、あるいはニセの死体となったカットが挿入されている。結局、本作における女優の役割は、その華やかな流血をもって「惨死の展覧会」に加わることではないかと思う。
結局、物語は、加藤が小沢と関内を銃殺するというサプライズをもって結末を迎える。しかし、過去作にみられたようなたけしの自滅(自殺)志向は、大友が片岡(小日向文世)にあっさり逮捕されることで一旦は消滅し、続編へと続くことになる。
3 おわりに
以上を総括すると、『アウトレイジ』は、過去作でもみられた「身体や武器による殴打」、「拳銃による銃撃」に加えて、「直接的な残酷描写」という第三の暴力が、様々なシチュエーションをもって展開されている。また、キャラクター造型の淡白さと、ギャグ要素を含んだ残酷描写、そして、物語後半でなだれ込むように次々と繰り広げられる惨死により、暴力のエンターテイメント化がなされ、全体としてバイオレンス喜劇に近いものとなった。『3‐4x10月』『ソナチネ』など、これまでのやくざ映画と作風を異にする今作では、複雑化し収拾のつかなくなった壊滅への物語の細部に目を向けるというよりも、繰り広げられる暴力の応酬、そして、多彩な残酷描写とそれにまつわる惨死を享楽するのがよいのではないだろうか。
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この期末レポートが課された時期、大学近くのTSUTAYAでは北野武作品が一斉にレンタルされていたことを思い出した。みんな何を借りていたんだろうか。どんなレポートを書いていたんだろうか。