映画『生きてるだけで、愛。』を観たけど・・・という話②

以下、①の続きです。

 

次に、『勝手にふるえてろ』と比較して気になった点。

・主人公の行動があまりに突飛すぎる

 『勝手にふるえてろ』のヨシカも、まともな行動や思考をしているわけではないのだが、この映画の主人公・寧子の行動・思考はエキセントリックすぎる

 これは、映画が悪い云々ではなく、本谷有希子の形成するキャラクターに自分が合うか合わないかという問題である。急に体毛を剃る、急に走り出す、急に全裸になる、こういった行動をする主人公に自分を重ね合わせることのできる人ならば、この映画は合うのだろう。

 実際、小説と映画という表現の場の違いはある。小説の中で主人公がこういう突飛な行動をしても、その行動の意味を咀嚼する時間は、自分が本を読み進めるスピードを調節すれば容易に確保することができる。しかし映画を劇場で観ている限り、いくら意味不明な行動が繰り広げられても映画を一時停止することなどできない。私のような人間からすれば、行動原理を理解しないうちに次のシーンへと切り替わり、置いてけぼりにされてしまう。

 であるから、原作小説は、読んでみると意外と違和感がないのかもしれないなあ、と思う。読むか読まないかは別である。

 『勝手にふるえてろ』と根本的に異なるのは、『勝手に~』は女性監督(大九明子)、『生きてるだけで~』は男性監督(関根光才)であるということ。寧子なんか、男性からみた、エキセントリックで魅力的な(まあ、エロいといったほうがいい)女性という感じで、理想が顕出してたっすよ。

・人間味のない周辺人物

  安堂の行動原理が意味不明と前回に書いたとおり、掘り下げが甘い登場人物ばかりである。寧子以外の登場人物は大体そういった感じである。

 『勝手にふるえてろ』においては、ヨシカの恋人「二」はもちろんヨシカの同僚・来留美、ヨシカが憧れていたイチに関しても、ヨシカが抱いているイメージ(=観客に与えられるイメージ)が裏切られる瞬間がある。

 対して、安堂、カフェ経営の夫婦とアルバイト、こういった面々のそれぞれに我々が抱いているイメージは最後まで裏切られることはない。特に寧子が働かせられているカフェ経営の夫婦は、寧子に対して常に奇妙なほどに優しく、結局、最後まで寧子に感情のこもった叱咤をしたり、自分の弱さを見せるようなことはなかった。そういった役割の人物ではないと言われればそうなのだが、それにしては画面に映っている時間が長く、観ている側としてはその「裏」を期待してしまう。結局何も無かったが。

 津奈木に関しては、寧子が本編で口にしていたように、言葉で感情を表現する場面が少なく、何を考えているかあまりわからないため感情移入できる隙間もない。でも窓からPCを投げるって・・・ あんな高い階から投げて、通行人に当たったらどうするつもりだったんだろう。PCが砕ける様子もたっぷりスローモーションだったなそういや。

総じて、主人公以外の登場人物の人物描写は浅かったということである。

 

まあ、寧子を演じた趣里の迫力!とか世武裕子さんのエンディング曲が素晴らしい!とかいいところもあるから、人を選ぶけれど、大きなエネルギーをもった映画ということで、合う人には合うのではないだろうか。そういえば劇場でも女性が多かったから、菅田将暉ファンがいるということも含め、女性に受け入れられやすい映画なのかも。

 

おわり