村上陽一郎『あらためて教養とは』

村上陽一郎氏といえば、大学入試の現代文で度々出題されて、まあそんなに難解な文章ではないものの散々苦しめられた。去年まで受験生だった身として、正直あまり良いイメージはないのだけど・・・

なぜ今この著書を読もうと思ったのか、これにはちゃんとした理由がある。去年まで通っていた高校にこの夏に赴いたとき、その高校で一番偉い先生と雑談する中で、この本を読んでみるよう勧められたのだ。

 

この本の一番面白いところは、「教養」とは何か、「教養教育」はいかにして誕生、継承されてきたか、ということを説明する中で、古今東西にわたって様々な教養知識が引用されている部分であると思う。

特に面白いのが、「アルゴリズム」の語源がイスラーム世界の数学者「フワーリズミー」だったというもの。イドリーシーやフィルドゥシーは忘れてもフワーリズミーは決して忘れることは無かったくらい「フワーリズミー」って声に出して読みたいアラビア語

 

逆に言えば、筆者が一番語りたかったであろう大正~昭和~平成そして現在にかけての教養論である第四章以降は、あまり語られていることに魅力がなく、読んでも読まなくてもいいんじゃないかと思った。魅力がない、というのは、驚異的な視野の広さをもって教養を語り尽くしていた第三章までに比べて、第四章以降は筆者の思い出話や身の上話が多く、思考が縮こまってしまう感じがした、ということ。

もう一つ、文庫版が出版されたのは平成21年だけど、元の単行本が出版されたのは平成16年だから、もう15年くらい前の書物ということになる。この15年でも「教養」の意味は少しずつ変化していて、本書の内容には、現在の状況と共通して言える部分と言えない部分がある、ような気がした。

 

 

「大学の教養課程では興味の無い授業もとらなければならないのが辛い」と話したところ、この本を勧められたのだけど、きっと僕のことを、教養教育への理解がない今時の大学生だと思っているのだろうし、今度お会いしたときには「僕は決して教養課程が無意味だと言っているわけではありません」と言わなければ。